世田谷のおはなし

喜多見のまむし除け ― 伊右衛門の祈り

むかし、世田谷のはずれ・喜多見の里は、水田と雑木林が広がる自然豊かな地だった。だがその分、春から夏にかけては、まむし青大将といった毒蛇の被害が絶えなかった。

ある年の春、村人が次々とまむしに噛まれる事態が起こった。村は不安に包まれたが、そのとき立ち上がったのが、村の伊右衛門家に代々伝わる**「毒消しの祈り」**を継ぐ男、**齋藤伊右衛門忠嘉(ただよし)**であった。

伊右衛門の先祖は、かつて山中で命を助けたまむしから恩を受けたとされ、その礼にと授かったのが、**『真虫除秘咒録(まむしよけひじゅろく)』**という秘伝のまじないと施術法だった。

彼は言った。

「竹の皮と榎の葉、唾液と経文。
まむしの毒は、天地の理と人の気で祓える」

伊右衛門は、まむしに噛まれた者の患部をその場で吸い、竹や葉で患部をなで、秘伝の祝詞を唱えて回った。加えて、村人には**まむし除けの札(ふだ)**を配り、畑や腰に下げさせた。

この護符には、こう書かれていた:

「蛇もまむしも どっけどけ
おいらは喜多見の 伊右衛門だ
槍も刀も持ってるぞ
ぢょっきり切られて 腹立つな」

これは今に伝わるまじないの歌であり、喜多見の子どもたちが唄いながら草むらを歩いたといわれている。

こうして、伊右衛門のまむし除けは村人の信頼を集め、いつしか齋藤家は地域の“まむしの医者”として知られるようになった。

今日でも、喜多見の地には**「まむし除けの札」**を作る風習が残り、世田谷区の無形民俗文化財として記録されている。
弥生の風に乗って、ふと香る薬草の匂い。そこには、伊右衛門の祈りが今も生きているのかもしれない。

出典

世田谷区公式文化財情報(無形民俗文化財一覧)

『真虫除秘咒録』(文化6年〈1809〉奥書あり)

世田谷区立郷土資料館調査報告

民俗伝承「喜多見のまむしよけ」:齋藤家に伝わる施術と護符